有珠山(うすざん)は、北海道、洞爺湖の南に位置する標高737mの活火山です。
山頂は壮瞥町にあり、山体は洞爺湖町・伊達市にもまたがっています。
過去100年間に4度の噴火活動が観測された、日本でも特に活発な活火山であります。
二重式火山で、直径約1.8kmの外輪山の中に大有珠、小有珠、オガリ山、有珠新山などの溶岩円頂丘群が形成されています。
また山麓にも昭和新山や金比羅山、明治新山などの円頂丘群を有しています。
1663年以降の活動はケイ酸(SiO2)を多く含んだ粘性の高いマグマによるもので、噴火前には地殻変動や群発地震を発生し、噴火に伴って潜在ドームや溶岩ドームによる新山を形成するのが特徴であります。
有珠山の歴史
成り立ち
洞爺湖をかたちづくる洞爺カルデラの南部に有珠山が形成されたのは約2万年前と考えられています。
噴火を繰り返し年月をかけて成層火山をなしたが、約7千年前に山頂部が爆発しました。
その際に山体崩壊が発生し、南側に口を開けた陥没地形が形成されました。
この時発生した岩なだれは噴火湾にまで達し、有珠湾周辺の複雑な海岸線をつくりました。
江戸時代の噴火
山頂崩壊後は長く活動を休止した有珠山であったが、寛文3年(1663年)旧暦7月14日に山頂噴火しました。
翌日には山麓の家屋を焼き住民5人が死亡したとの記録があります。
活動は7月末まで続きました。
この時の噴出物で山頂南側開口部が再び閉塞され、山頂火口は現在のような臼状の地形となりました。
次の活動は明和6年12月(1769年)で、南麓の集落が全焼しました。
山頂陥没部に現在の小有珠にあたる溶岩ドームが形成されたのは、この明和噴火か、その前の寛文噴火の時と考えられます。
最も大きな被害をもたらした噴火は文政5年(1822年)旧暦1月19日に始まった噴火で、2月1日には山の南側を中心に火砕流が流下し、火砕サージも発生しました。
これにより南西麓のアブタコタン(現在の洞爺湖町入江)が壊滅し、記録によって異なるものの50名以上の住民が死亡したとされました。
また、蝦夷地随一の馬産牧場であった虻田・有珠牧場も多くの馬を失う被害を受けました。
今日ではオガリ山と呼ばれている潜在ドームは、この噴火で形成されました。
嘉永6年(1853年)の噴火も大規模な火砕流を伴うものだったが、当時集落のなかった洞爺湖方向への流下だったため、大きな被害はもたらさなかったようです。
この噴火は27日に終息したが、翌日から山頂に溶岩ドームが成長しはじめました。
これが大有珠であります。
江戸時代の噴火はいずれも山頂からもので、多量の噴出物を一気に放出する、いわゆるプリニー式噴火でありました。
また、いずれも火砕流と火砕サージの発生が見られ、被害の多くは火砕サージの熱風による家屋の焼失でありました。
1910年噴火
1910年(明治43年)7月25日、北西麓の金比羅山で始まった噴火は、まもなく北東麓の東丸山にかけての地域で次々に火口が開き、その合計は45個に及びました。
マグマが洞爺湖付近の地下水と遭遇して水蒸気爆発を起こしたものでありました。
一部の火口からは熱泥流が発生し、これに巻き込まれた1人が死亡。
噴火は8月5日まで続きました。
北麓では地殻変動が起こり、最大約150m隆起して新たな山を形成しました。
この山は明治新山、あるいは明治43年にちなんで四十三山(よそみやま)と呼ばれています。
この噴火活動により、火口に近い洞爺湖岸では温泉が湧出するようになりました。
これが洞爺湖温泉の始まりであります。
1944年-1945年噴火
有珠山東麓では1943年末から地震が続き、1944年に入ると東九万坪と呼ばれる地域で次第に地盤が隆起しはじめました。
6月23日についに水蒸気爆発が発生し、その後も爆発を繰り返しました。
この噴火では降灰による窒息死で幼児1名が死亡しています。
もとは標高100mあまりの台地であったところが、潜在ドームの形成により250mほどの山となっていたが、11月中旬になると火口から溶岩ドームが現れ始めました。
この潜在ドームと溶岩ドームは翌年9月まで成長を続け、標高は400mを超えました。
この新山は田中館秀三により昭和新山と名付けられた。
1977年-1978年噴火
1977年8月7日午前9時12分に始まった噴火は山頂からのプリニー式噴火でありました。
同年8月14日未明まで4回の大きな噴火を含む10数回の噴火が断続しました。
噴煙の高さは最高12,000m。火口周辺地域には多量の軽石や火山灰が堆積し、家屋が破壊されました。
降灰は道内119市町村に降り注ぎ、農作物に多大な被害を発生させました。
また、当時付近を走っていた国鉄胆振線もこの噴火で不通になりました。
降灰撤去費用がかさんだことが、同線の後の廃止の一因になったといわれています。
11月16日からは水蒸気爆発が発生し始め、翌年の10月27日まで続きました。
この爆発による火山灰は降雨によって泥流となり、死者2名、行方不明者1名が出ました。
地震と地殻変動は1982年3月まで続き、山頂部には有珠新山が形成された。 この地殻変動により校舎が破損した洞爺湖温泉小学校は移転改築を余儀なくされました。
2000年噴火
最近の噴火は2000年のものである。3月31日午後1時7分、西山山麓からマグマ水蒸気爆発しました。
噴煙は火口上3500mに達し、周辺に噴石放出、北東側に降灰しました。
翌日には西山西麓、また温泉街に近い金比羅山でも新火口が開きました。
西山火口群を通過する国道230号は、地盤の隆起と断層により破壊され、通行不能となりました。
金比羅山火口からは熱水噴出により熱泥流が発生し洞爺湖温泉街まで流下、西山川に架かる2つの橋が流失しました。
火口に近い地域では噴石や地殻変動による家屋の破壊が多発しました。
また、広い範囲で地殻変動による道路の損壊が発生しました。
特筆すべきはこれだけの災害でありながら死傷者が出なかったことであります。
3月27日からの火山性地震の分析や断層の探索により近日中の噴火が予知され、3月29日には気象庁から緊急火山情報が出されました。
これを受けて壮瞥町・虻田町(当時)・伊達市の周辺3市町では危険地域に住む1万人余りの避難を噴火までに実施していました(噴火後に避難者数は最大約1万6千人まで拡大)。
通常、緊急火山情報は人命に関わるような噴火が発生したことを知らせるものであり、噴火前にこれが発表されたのは初めての例であります。
有珠山が比較的「噴火予知のしやすい火山」であること、噴火を繰り返す周期が短くかつ一定で、地域の住民の多くは前回、前々回、中にはそのさらに前の噴火を経験した人もいること、また、「温泉などの、有珠山の火山活動による恩恵を受けて暮らしているのだから、30年に1度の噴火は当然受け入れなければいけないこと」という意識が高く、周辺市町のハザードマップの作成や、普段からの児童への教育などがなされており、危険地域を避けた適切な避難誘導を行ったことなども被害が最小限で済んだ要因の一つであります。
熱泥流に襲われ校舎が破損した洞爺湖温泉小学校は敷地が砂防ダム用地になったことも合わせて再び移転改築を余儀なくされました。
一時期室蘭本線が跨線橋の落下などのため不通となり、長距離列車は函館本線経由で運行されました。
3月29日から翌2001年6月30日までの間、道央自動車道の一部区間が路面損壊などのため通行止となりました。
また、有珠山に近い室蘭市入江運動公園陸上競技場での開催が予定されていたサッカー・J2のコンサドーレ札幌対浦和レッズ(4月9日開催)、ナビスコ杯・コンサドーレ札幌対ガンバ大阪(4月12日開催)が噴火の影響により延期となりました。
見学地
西山火山散策路
2000年に噴火した火口付近に設定された散策路。
枕木を敷き詰めており、子供から年配の来訪客まで容易にアクセスできます。
展望台からは水蒸気が立ち上る様子や噴火により破壊された建物、隆起により寸断された道路(国道230号)などを見学できます。
駐車料金300円が必要で、散策路周辺は民有地のため土産物屋が多数存在します。
洞爺湖町立火山科学館
1977年、2000年の噴火時資料を多数展示されています。
近隣の砂防ダム上から、2000年の噴火対策を行った際に、砂防施設内に取り残された団地を見ることが出来ます。
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